マイペース飽き性

出来事や考えごとをつづかみが飽きるまで書き連ねる場所がこちら。

今、思うこと。思うことから考えること。

ここ最近考えてることをまとめてみた。

あと、書きだして整理して改めて思ったことも含めてみた。

レスポンスがあればうれしいのです。

脈絡はありませんので、区切り区切りで読んでいただければ。

 

人と話すときは、相手はどんな人でどういう環境におかれていてどう思っていてどんな苦労していてどうしたいのかってのを知ろうとする努力が必要だと思う。

そこから、ある程度知り得ることができたら、一つのことを話し合えると思う。

価値観の違いだってある。

ものの見方も一緒とは限らない。

それを知った上で話し合わないと、結局は離れてくだけ。

 

最近、人との出会いが多いです。

先日も高専カンファレンスに参加させてもらいましたし、

学校での活動上(学生会の交渉担当)、近畿地区の高専とも密に連絡を取り合いますし、全国規模でも連絡させてもらうことだってあります。

ふと、それを経験して思うのですが、新しい人とも旧友とも関係がおざなりになってきてるんじゃないかな、と。

最近忙しいのは確かです。学業も専門分野が始まり難しい部分も多くなりました。

まして、学生会も粗末な部分もありながら、毎日毎日放課後すべてを使って活動してます。

時間がない。

――言い訳です。

時間を作ろう。

――どれを犠牲にするのですか?

そんな葛藤ばかり。

いっぱい、知り合った人と話したい。

その方の考え方を教えていただきたい。そして、私の考え方と比較したい。

感銘を受けたら、参考にさせていただきたい。

大きく違ったら、こちらの主張はしますし、そのような考え方もあるのかと理解します。

そんなことを繰り返して、私の考え方や価値観を変えていきたい。

もっと、寛大になりたい。

違うことは違うと言える精神力を持ちたい。

けども、現状はそんなことはできず、すべきことをする毎日。

それは間違ってるとは思いませんし、いい経験であります。

ただ、失っていることも考えると、葛藤してしまうのです。

 

また、あまりこの人とは接したくないな、ちょっと苦手だな、と思うとき。

ここは我慢、というと辛そうに聞こえるので、挑戦という言葉を用います。

我慢ではあるのですが、それではすごくマイナスイメージ。

だから、挑戦。

好き嫌いはよくない、とは食事のシーンでよく言われることでありますが、

好き嫌いは思うことはよいと思います。

自分の意志がはっきりしているから。

この人はこの部分が好きだ、だからついていこう。

この人はこの部分が嫌いだ、だから……、

と、この部分が重要。

嫌い、だから何をするか。

――排斥すること。

一番簡単で楽なことです。

でも、大変さを相手に押し付けていいのでしょうか。

綺麗事です。とても綺麗事です。

とは思いますが、それで逃げる自分はどうなんでしょうか。

ずっと考えます。

嫌いな人といても、自分が苦しいだけ。

かといって、一蹴するのは相手を思う気持ちがないのではないでしょうか。

そこがうまく乗りきれて、初めて「大人」という属性に近づけるのでしょう。

――自分が楽であれば、それでいい。

もちろんそれが理想ではあります。皆が皆、楽であればなにも問題ありません。

ですが、現代社会を考えるに、そのようなことは容易に現実化できるのでしょうか。

現に、あなたは生きていてストレスに感じることがない、ということはありますでしょうか。

私は、それに該当する人が大多数であるとは思いません。

聞く人を応援する歌もありますから。

楽な世界であれば、そのような歌に需要は生まれてこないでしょうね。

かつ、それに該当する人が大多数になるような社会も思いつきません。

理想郷は理想であり、現在の日本ではごく少数、もしくはないと思います。

話がずれたので戻すとして。

どうやって乗り切るのでしょうか。

だから私は「挑戦」という気持ちでいます。

自分の可能性、いろんな性格の人と接せられるように、挑戦する。

それと同時に、相手にも働きかける。

自分の感情を聞いてもらう。

嫌いな理由を伝える。あくまで嫌いという意識を抜いて。

その働きかける行動は、とても勇気がいること。

かつ、相手がどのような反応をすることか。

受け入れて理解してくれるのか。

または反発されるのか。

どうなるかは、言い方や親しさなどいろんな要素が含まれてます。

刺のある人から、丸い人になるということ。

万人受けする人は、いい人なのでしょうか。

私は、私自身も譲歩しているので、出来ればそちらもそれに気づいてもらって変わってもらえたらな、と思って自分の感情を伝えます。

押し付けがましい、のかもしれません。

ですがそれも経験。

やってみなきゃわからない。

迷惑は今のうちにこまめにかけとく。

年をとっていけば、若輩者からその迷惑を被っても

「この年齢なら仕方がない、私もそうだった」

と思えるようになれれば。

そんな社会。

そして、その理解があってこそ、指導の仕方もわかるはず。

現代は教えること、なかなか難しいですよね。

ちょっときつく言ったら、訴訟されてもおかしくないでしょう?

するなとは言わない。それも権利。

でも、言うことも権利。

権利と権利のぶつかり合い。

ここは、法で裁くような領域ではないと思います。

ここも、話し合い。

頭の善し悪しはどちらでもいいんだ。

考えられる力。

激昂しても、一度踏みとどまれる力。

相手の意見を理解して更に考えられる力。

そんな力が、現代で持ってる人が少ないのかもしれません。

(なんか、最初と最後で言ってることがずれてるのはご愛嬌 ^^;)

 

運の考えだったでしょうか。

――何かを得ることは、別の何かを失うことである。

例えば、働いてお金を稼ぐということ。

自分の限られた時間を使って、生きていく上で必要なお金を得る。

生きてる限り、それが摂理なんだと思います。

学生会や今自分が行なっていることは生きていく上で良い経験になるのだと思います。

今、この時間。18歳という人格を形成するような時期(と思ってます、私は)に、私は学生会活動を選んだ。

この先、一生影響するのだと思います。

そして、今こうしていることが将来を社会的にも自分的にもいい方向に変えるのか、という自問自答もします。

周りの人に影響され、自分を高められてられるかな。

他のことをしたら、もっと早く、高くできるのかな。

行き急ぐことはないとは思いますが、時間は有限。

短い時間でいろんな経験ができれば、素敵だなと思います。

 

こうして考え方をまとめておいて、明日、一週間後、一ヶ月後、一年後、十年後……と時間が経ったとき。

振り返ることがあれば、

きっとそれはそのときの私にも影響を与えることでしょう。

また、こんなふうにまとめあげる。

月1ででも書きたいなあ。

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