マイペース飽き性

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でなりとの遭遇

はじめに

denari01 Advent Calendar 2016という、でなり を知る者 信者にとっては真っ先に参加すべきものだと思いました。
そして、その願いが叶い、denari01 Advent Calendar 2016の 7日目記事を担当することになりました。
よくもまあ1週間も保ったよね、みんなすごいよ

昨日の記事はこちら。

whywaita.hateblo.jp

昨日のwhywaitaくんは,でなりとの出会いのアンサーブログしてましたね。
今気づいたけど、でなりの記事は

denari01.hatenablog.com

なんですけど、「出合い」を使うんすね。意図があるんでしょうか。
きっと、彼のことだから漢字も選んで使っているはず。
「気が『合う』から、出合いなんだ」みたいなことを言ってくれるでしょう。

……いいえ、私みたいな凡人が思いつくようなことを、でなりは言わない。
もっと、もーっとすごい、頭が上がらなくて四足歩行に退化するぐらい、意味の深いことがあるんでしょう。

そんな凡人の考えは置いておきましょう。
私とでなりとの遭遇をお話したいと思います。

でなりとの遭遇

でなりと遭遇していなければ、kosen10sの中に紛れ込むことはなかったと思う。
でなりと遭遇していなければ、ここまで高専生というアイデンティティを捨てずに生きてはいなかったと思う。
でなりと遭遇していなければ、ナルシストをネガティブな意味のまま使っていたと思う。

だから、今回はでなりといつ出会ったのかを考えたい。

でなりとの出会いは、いつだったろうか。
記憶を振り返る。

近畿地区高専学生会交流会

ここからは、私個人の記憶で話すため、でなり本人から「それは間違う」と言われてしまうと、ウソになることをご了承いただきたい。

彼との出会いは、2011年頃、近畿地区の高専の学生会を通じて知り合った。
彼は学生会の役員ではなく、明石高専高専祭の実行委員の1人。
私は学生会の役員の1人。
この2人は、学生会交流会の場で出会った。

その時の写真を持っていないか探したところ、残念なことになかった。
確か2年生の頃に会ってるはずなのだが、
自分の写真ファイルは2012年の3年生の途中からしかない。
写真を載せたかったが、残念である。

なぜここまでの付き合いになったのか

なぜ友だち関係に至ったのか、という淡々と話すにはとても難しいことである。

ここ数日(12月初旬)、彼と思考が少し似ているのではないか、と思うことがあった。
10s slackの某channelで、私の考え方に彼が同意したのだった。
そういった、考え方が少し似ているところから、付き合いが長続きしているのではないかと、ほんの少し思う。
交流会で話した夜、僕と彼とはこれから長い付き合いになるんだとほんの少し感じたことを思い出した。
あとの大半は、ノリだと断言したい。

遭遇してから

でなりと遭遇してからは、密に連絡をしたわけではない。
所詮、私は学生会の狗、でなりは高専祭実行委員の1人。
身分が違う(当社比)のであった。

しかし、そんな身分の低い(当社比)私に優しく接してくれたのである。
なんて優しい人なんだ。
なんて心が広い人なんだ。

私はそう思い、これからずっと慕っていこうと決意したのだった。

そのお陰で、今日、この記事の投稿日時点でも慕わせていただけているのである。
ありがとう、でなり。
ありがとう、ありがとう。

でなりとの遭遇のすすめ

ここまでは、私がでなりに遭遇する話を紹介した。
今度は、今この記事を読んでいるあなたがでなりと遭遇することで、どのような明るい未来が待っているのかを、私の実体験を踏まえて紹介したいと思う。

ナルシストが好意的に思える

でなりと遭遇することで、ナルシストが好意的に思えるようになる。
「ナルシスト」と聞くと、例えば鏡を見ると見た目を常に意識したり、自己愛の激しい人を思い浮かべるだろう。
でなりは、だいたいそうである。
ナルシストを全面に押し出している。
だからこそ、ナルシスト濃縮還元100%で感じることができる。
果汁そのままを飲むかのように、でなりの自己愛を全て感じるのである。

記事を読んでいる皆さんは、
「ナルシストの人だから、ちょっと距離置きたいな」
と思う人もいるだろう。
それは食わず嫌いではなかろうか。
もしくは、生半可なナルシストに遭遇したからではないだろうか。
それだけで「ナルシストは面倒くさい」と思うのは、損していると私は考える。

そこで、でなりである。

自分のデザイン力の無さに気付かされる

皆さんは、デザイン力に自信があるだろうか。
私はまったくない。
プレゼンテーション資料を作成するにあたっても、よくあるテンプレートを使用しているのにもかかわらずダサいものを生み出す能力をもっている。
htmlタグで飾り付けたホームページみたいなものを量産するのに長けている。

しかし、でなりはデザイン力があると自負している。
でなければ、デザインを仕事にして生きていくことなんて、誰ができるだろうか。

そんな、でなりの生み出すものを一目見れば、自分のデザイン力の無さを実感するだろう。
でなりの作品が、美しいのである。
美しい作品を、間近で見ることができるのである。
どれほど豊かな生活だろう。

だからこそ、でなりである。

人脈の大切さを感じる

現に私も、でなりによって人脈が広がる恩恵を受けている。
人脈があることで、自分にはない世界を見ることができる。
井の中で威張っていても、井の外にはいろんな人がいる。
井の外へ出ねばならない

井の外へ出るには、何か足がかりがないと1人では難しいだろう。
そんなとき、でなりと一緒に過ごすのである。
でなりがいて、自分も参加できるコミュニティを覗いてみるのである。
いろんな人がいる。いろんな考えがある。
いつのまにか、自分の考えが磨き上げられているのに気付くだろう。

なにがどうなっても、でなりである。

まとめ

でなりに会ってみよう。

Don't think. Meet Denari.

 

明日は、denariさんです。

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